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八丁堀さんぽ その4

新川之跡

新川之跡碑
  • 新川は、現在の新川1丁目3番から4番の間で亀島川から分岐し、この碑の付近で隅田川に合流する運河だった。規模は延長約590m、川幅は約11mから約16mと、狭いところと広いところがあり、 西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていた。
  • この新川は、豪商河村瑞賢(ずいけん)が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治3年(1660年) に開さくしたといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられている。
  • 当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸にたち並ぶ酒蔵の風景は、数多くのさし絵や浮世絵などにも描かれた。
  • 昭和23年(1948年)、新川は埋め立てられたが、河村瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和28年(1953年)に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立された。

豊海橋

日本橋川の第一橋梁
  • この場所に最初に橋が架けられたのは江戸時代の中期、1698年(元禄11年)とされる。北詰には船手番所が置かれ、諸国廻船が往来する江戸水運の要所に位置していた。
  • 河岸には土蔵が建ち並び、陸揚げされた荷駄が行き交う活気に満ちた界隈であった。
  • また、吉良邸への討ち入りを果たした赤穂浪士は永代橋で大川を渡ったのち、この橋を経て 泉岳寺をめざしたと伝えられる。乙女橋とも呼ばれていた。
  • その後、幾度かの落橋・焼失、再架を経て、1903年(明治36年)1月に長22間・幅4間の下路式プラットトラス橋が架けられ、 初めて鉄橋化。1923年(大正12年)の関東大震災で落橋し、震災復興橋梁としての現在の姿に至る。

霊岸島之碑

霊岸島の由来 説明板
  • この辺りは昔、海だったが霊岸島一帯は徳川家康時代に神田山(現在の駿河台)を削ったり、堀(運河)を作るために排出された残土で海を埋め立てて出来た人口の島で、 現在の中央区や深川は江戸時代に作られた土地である。
  • この埋め立ては現在もその過程にあり、徳川幕府や江戸を繁栄させ今日の東京があるとも言える。この界隈は、 現在はウォーターフロントとして大都市東京の要である。江戸時代も徳川幕府の要の地であり、松尾芭蕉や写楽と言った江戸の文化や 、越前掘や徳船稲荷神社と言った徳川幕府を 感じさせる遺跡や記念碑が数多くある。